政府はもう嘘をつけない (角川新書) 新書?堤 未果 ()    5つ星のうち 4.7       45件のカスタマーレビュー      


 

内容紹介

世界を揺るがす「パナマ文書」の知られざる真相、カネの流れを辿れば見えてくるアメリカ大統領選の本質、憲法改正の入り口としての緊急事態条項をはじめ日本に忍びよる強権的「ファシズム」の怖さ、ISDS条項をはじめTPPに埋め込まれたた罠……。世界でも日本でも、違和感だらけの世界が広がっている――。でも、大丈夫! 政府がシステムで国民を縛るなら、私たちはシステムの外で動き出せばいい。世界でも日本でも、新しいうねりが動き始めている。今こそ、脳内世界地図を更新し、取るべき行動があなたにはある!

 

内容(「BOOK」データベースより)

 

パナマ文書のチラ見せで強欲マネーゲームは最終章へ。「大統領選」「憲法改正」「監視社会」「保育に介護に若者世代」。全てがビジネスにされる今、嘘を見破り未来を取り戻す秘策を気鋭の国際ジャーナリストが明かす。

登録情報新書: 303ページ出版社: KADOKAWA/角川書店 (2016/7/10)
言語: 日本語・発売日: 2016/7/10


 目次

プロローグ:パナマ文書の何が悪い? ?慌てるアホウに笑うアホウ?3頁・


1:金の流れで「アメリカ大統領選挙」が見える!33頁・


大量の札束が降り注ぐ大統領選挙・37頁・


全有権者の0.000042%が、選挙権結果を握る!47頁・


アメリカには「カネ」で買えないものはない・52頁・


リーマン・ショックの責任は「3種の神器」で回避せよ!・55頁・


ヒラリーの講演料は時給20,000,000円・66頁・


外国政府も武器商人もアメリカ政治を「爆買い」・69頁・


日本政府も絶賛ロビー活動中〜TPP反対の米国議員を説得せよ!〜・72頁・


米国誌にもTPP推進記事を書かせるべし・76頁・


飛ぶ鳥を落とす勢いの「ロビイスト産業」・80頁・


学者も医師もマスコミも「回転ドア」をどんどんくぐる・82頁・


トランプ&サンダース旋風は同じコインの表と裏・86頁・


2:日本に忍びよる「ファシズムの甘い香り」・95頁・


「非常事態宣言」で、政府は巨大な権力を手に入れる・98頁・


日本にも緊急事態条項を入れたがる人々・103頁・


「緊急事態条項」で、安倍総理はあまりか大統領より強くなる?!・110頁・


法律を作るものが、国の行き方を左右する・112頁・


日本では「三権分立」より根回し?!・116頁・


「人事」を握れば官僚も黙る・125頁・


必要なのは「脱官僚」より「愛国官僚」・127頁・


保育に介護に医療に教育、農業も「特区」で叩き売り・134頁・

教育ビジネスという名の「投資商品」がやってくる・141頁・

月100万円の抗がん剤、支払えますか?・146頁・

法律は「点」でつなげて「線」で見よ!・151頁・

3:違和感だらけの海外ニュースも、「金の流れ」で腑に落ちる163頁・

パリのテロで株価爆上げした軍需産業・166頁・

儲かりすぎてやめられない「テロとの戦い」・171頁・

ギリシャ破綻で笑いが止まらないメルケル首相・174頁・

IMFより怖い、ハゲタカ弁護士がやってくる・179頁・

香港の「雨傘革命」もメイド・イン・アメリカ・187頁・

ツイッターでキューバの政権を転覆させよ!・192頁・

世論は「広告代理店」に創られる?!・197頁・

ネット「検索」すればするほど、重要情報から遠ざかる・201頁・

EUTPP」に怒り狂うヨーロッパの市民たち・205頁・

TPPで「脱原発」は永遠にできなくなる・209頁・

公共サービス全てに値札をつける「TISA協定」でチェックメイト・215頁・

4:「脳内世界地図」をアップデートせよ! 221頁・

報道に自由度72位の日本で、真実を見抜く方法とは?・224頁・

「人工芝運動」(ニセモノ草の根市民運動)に注意!・234頁・

「アイスランドの奇跡」をモデルにしよう!・238頁・

医療費カットで地獄絵図と化したギリシャ・245頁・

鍋とフライパン革命〜マネーゲームの尻拭いを国民に押し付けるな!〜・248頁・

こんな憲法改正は嫌だ・262頁・

社会を変えたいなら「自分の世界の主役」になれ・265頁・

「これでも政治を諦めますか?」・271頁・

「戦う敵」より「手の中の宝物」を数えよう・278頁・

 

エピローグ:

18歳選挙?どんな未来にしたいですか?〜」・285頁・

あとがき・294頁・

参考文献・資料・299頁・

平成29812

?  商品の概要に戻る

今という時代を総論的にとらえる最高の1, 2016/7/13

レビュー対象商品: 政府はもう嘘をつけない (角川新書) (新書)

 

堤さん、いつもながら見事です。パナマ文書を公開したICIJが、実は情報を選択的に出したという欺瞞から本はスタートします。こんな刺激的なトピックもプロローグに過ぎません。巨額の献金で完全に政治を支配するアメリカの1%富裕層、それを支える企業の息がかかったロビイスト、安倍政権が実現をもくろむ緊急事態条項の危険性の検証、法律を実際に書く官僚の利害。TPPなどはグローバル企業弁護士が書いたものと指摘します。ISDSによる訴訟までビジネスになっており、TPPの後にはあらゆる公共サービスを民営化するTISA協定も控えていると。

ある投資銀行関係者の言葉は強欲資本主義の実態を象徴しています。「『国民主権』や『公共』という非効率な概念がやっと取り払われる」

 

世界中で進行するこんな風潮に対して、私たちは無力感を抱きがちです。しかし、アイスランドはこんな状況を跳ね返した実例だそうです。バーニー・サンダースに代表されるように、気づき始めた人たちは大勢います。

「戦う敵より、手の中の宝ものを数えよう」本の中のある一節のタイトルです。素晴らしい。

5:08 2017/08/12

 

オウナン

政府はもう嘘をつけない





江田五月の現代社会は政治がないと生きられない、西村議員の部長せい

横浜にLRTを走らせる会(ブログ版)
横浜市へのLRT(低床式路面電車)の導入に向けて
路面電車を考える館

memoyou

次世代路面電車(LRT)による枚方のまちづくりを推進する会枚方


沖縄に電車を走らる提言書>>

現代社会は、政治なしでは成立しえない。どんなに私たちが政治を嫌っても、政治が私たちをつかまえて放さない。


ヨーロッパでもかっては路面電車が車に駆逐された時代があった。が,最近10年間に至って車の公害や都市の渋滞から街を再生させるため,高加速,高減速,低騒音,超低床の新車体(LRT=Light Rail Transit)を開発し,ヨーロッパの各都市での新路面電車の復活・復権がおこなわれている。まさに「路面電車のルネサンス」が始まったのである。

ハイデルベルグのLRT 窓も大 山根政則

停留所は幅広くして車を徐行さす山根政則 

独ロストク市のLRT         池田宏

低床車は車椅子も楽々乗車    池田宏米でも復権が サンディエゴ    中川純典

仏ストラスブルグの広窓最先端車 中川純典

12/23/2005 5:10:28 AM


路面電車・万葉線再生の取組に学ぶ!

ユニバーサルデザインの提唱者はノースカロライナ州立大学(米)のロナルド・メイスである。自身も身体に障害をもつ彼は1980年代、それまでのバリアフリーの概念に代わって、「できるだけ多くの人が利用可能であるように製品、 建物、空間をデザインすること」をユニバーサルデザインとして定義した。
 
一口に障害をもつ人といっても、視覚、聴覚、肢体、内部、知的など、さまざまな障害があるし、同じ障害でも程度の差がある。また誰もが、怪我などで一時的に障害をもつこともあるし、言葉のわからない土地に行けば移動制約者となる。
 
ユニバーサルデザインは、“すべての人が人生のある時点で何らかの障害をもつ”ということを、発想の起点としている点で、それまでのバリアフリーデザインとは大きく異なる。そこには、可愛そうな人のために何かしてあげようと いう慈善はない。


memoyou


2005年6月18日 23:01:27 滝田様
 いつもありがとうございます。
 3区は大変広く、南薩にはいまだにほとんど手がついていない状態です。
 しかし奄美を含む2区は日本最大の選挙区の広さですね。
支持を得られますよう、なるべく多くの皆様方と話し合い、勉強をさせていただきながら、政策を作ってまいりたいと思います。感謝合掌
野間  拝滝田 好治 様

ニセコ町まちづくり基本条例 
         
         
 
 
     
         
         



初めまして。また、御礼が遅くなりましたこと申し訳ありません。
この度は私の本をご購入頂いた上に、ご高配頂き誠にありがとうございます。
ご指摘のように、民主党は都市部でこそ自民党と互角の戦いをしておりますが、地方ではまだまだ弱い地域が目立ちます。ここにどのように対応していくかが政権交代出来るかどうかの最大の課題であると思います。
従来のイデオロギーの対立ではない本当の二大政党制を目指すためには民主党は、特定の業界団体とのしがらみの中で政治を行う自民党に対して、まさに国民主権の政治を確立することしかないと考えています。
そのために我々が乗り越えていかねばならない課題もまだまだ山積しております。
そのことをしっかりと頭の中に入れて行動していきたいと思います。
あわせて、国民、有権者の皆様にも「政治を変えるのは、政治家と国民の共同作業である」という私の信念をひたむきに訴えていきたいと思います。
今後もこれをご縁に様々なご指摘を頂ければ幸いです。
もし、東京に来られる機会などございましたら気軽に国会の事務所にお立ち寄り下さい。本当にありがとうございました。
               6月18日     笠 浩史


2005年5月11日 22:39:12

滝田好治様
ご意見有難うございました。全県に県連合をつくるのは
民主党の県組織との関係をどうするかという
問題がありますが、可能なところから手をつけるというのも一案です。
小沢一郎



平成1312議会西村議員(一般質問)再度、部長制の廃止について
(課長会議を(管理者)会議と位置付けより政策
的に機能する組織を提案。

9番(西村孝子君)ありがとうございます。来年度の見直しにむけて、非常に期待をいたしておりますので、よろしくお願いしたいと思います。それでは2番目のほうの部長制の廃止についてお伺いいたします。
名瀬市においては、昭和49年以降部制を採用して27年になります。
部門管理において部を単位として部長がこれを統轄管理することでありますが、名瀬市において庁内の現行の部制に対する批判の声もあります。平成86月に都市センターが受託した名瀬市行財政診断調査報告書の提言の中で、庁議システムのあり方をはじめ、行政運営の重要な問題を数多く指摘されています。

中でも本市の部長制をかなり厳しく批判し、部長制の権限強化を提言なされていましたので、平成99月議会でも質問いたしました。当局はこの部長制について都市センターのほうから厳しい御指摘を受けられ、庁議においての運用の面、部長席の削減、部長職の在り方で権限の明確、
強化の措置など講じられておられますが、行政サービスの複雑化、多様化でも対応は部長制がなくても可能だと思います。

課レベルで事務事業の進行と課内の人事管理、部内間の調整など、行政運営の推進は機能するものではないでしょうか。

部制を採用した頃は名瀬市の景気が右肩上がりの時、人口も5万台ではなかったでしょうか。今はその逆であります。
名瀬市長期計画の中にもありますが、名瀬市の10年後の人口は4万を切ると言われております。見直しの時期に来ているのではないでしょうか。
部長の権限の拡大よりも部長制を廃止し、課長会議を管理者会議と位置付け、より正確的に機能する組織機構の再度提案いたしいと思います。
市長の御見解をお伺いいたします。市長(平田隆義君)西村さんの質問に答弁します。
西村さんのご意見のようでございますが、どういう経験を持って部長制が廃止という結論に達したかがちょっと不明ですので、なかなか答弁しにくいようです。私がここ7年間経験しまして、部長制は大変重要な意義のあるシステムだと、このように受け止めております。そして多くの事で部長会で各部の部長の発言がこれからの私の行政執行に対して大きな影響を与えます。
このことは大事なことだと受け止めております。特に私はいつも申し上げております。私は一民間から来たと。民間人ということは一市井の一市民だと。市民の感覚でものを言う。

部長の皆さんは何十年という市の行政に携わって、その実績を積んで今日に来た人たちです。当然に行政の運営についてはプロだという認識を持っております。そのプロと一市井の市民との意見の調整ということは大変重要だと思います。50数名の課長がおりますが、その人たちと一つ一つについて対応するということは、今の市長職ではとてもじゃないが難しいだろうと思っております。
そういう点では助役、部長制を十分にどうして活かせるかということが大事だろうと、このように思っております。
これからも部長の皆さんも精一杯頑張っていただけるものだと期待をしながら、このシステムを維持していきたいと私は思っておりますので、御理解賜りたいと思います。

9番(西村孝子君)名瀬市において部制が27年間きているわけなんですけども、私も今議員になりまして4期なんですけども、以前からのことですのでその以前のことは分からなかったものですから、私は都市センターの受託された診断書を基に過去の名瀬市の庁議システムなど一通り見させてもらいました。
その中でああこういうことがあったんだなということなどもありましたんですけども、まず本庁の庁議において幹部会、調整会議、部長会議の3段階の形式があるということを、役割といいますか、それが明確にされていますけれども、そこで都市センターの指摘によりますと、運営自体の中で大きな問題を指摘されておりました。

平成7年を例に例えてあったもんですから、幹部会が1年間でたった2回しか開催されていないとか、それからどちらも補正及び当初予算案に関する協議が行われていただけであると。また、一方では調整会議などが16回も開催されているというアンバランスといいますか、そういったことも記されております。

それを見たときに名瀬市における庁議のシステムが繁雑だなあと私はそこで、私の感想ですけども、思ったものですから。それと、今の名瀬市の市民サービスの多様化一つにしても、私はその部制がなくても対応できるんじゃないかなあと思ったのと、現在の名瀬市、10年後の名瀬市を見たときに見直していったほうがいいんじゃないかなという思いで私は質問したんですけども、きっかけは都市センターの受諾した診断結果を基に分析したものですから。
市長のお考えといいますか分かりました。いくらか申し上げてもなかなか合わないところがあると思いますので、そういう時期が将来また来るのではないかと思いますので一応問題提起という形をさせてください。

それでは通告の3番目の教育行政について入ります。初めに教職員の自主研修の補修についてお伺いいたします。教員のチームワークの協力体制を整えるためには教員相互の研修は不可欠であります。

王滝村が突きつける直接民主主義の挑戦

20050625日(土)

萬晩報主宰 伴 武澄

長野県南相木村の色平さんから「長野県木曽郡で直接民主主義実現へ」という刺激的なメールをもらった。23日の王滝村の村議会で「議員定数削減」と「村民総会設置」の二つの条例案が提出されたという。

市町村合併で100人を超える議員を抱えるようになった自治体がいくつも出現した。そんな矛盾に真っ向から問題提起した王滝村の人々の勇気に拍手を送りたい。

以前の萬晩報に書いたこともあると思うが、日本のマスコミの限界はこうした小さくもきらりと光るニュースが県境を越えないところにある。

総会設置条例案は、町村議会を置かずに、有権者の『総会』を設けることができるとした地方自治法94条の規定に基づく。信濃毎日新聞によると「条例案は、村民総会は18歳以上の全村民を構成員とし、定例

会を年1回開催、半数以上を定足数とし、報酬は支給しない」。

 まず日本の地方自治法にそんな規定があったことに新鮮な驚きがあった。六法全書を取り出して地方自治法を読んでみるとあるある。「町村は議会を置かず、選挙権を有する者の総会を設けることができる」の

だ。http://www.yorozubp.com/0506/050625.htm (1/3)2006/01/24 15:39:49

検索

王滝村が突きつける直接民主主義の挑戦

過去に住民総会を設けた村はあるそうだが、もちろん現在はない。そもそも小さく貧しい村で「生業としての議員」が必要なのか疑問だ。人件費だけの問題ではない。選挙にだってお金がかかる。小さな共同体で行政と議会という二つの機能が不可欠とは思えない。

 

王滝村は平成の市町村合併で近隣町村と合併できず、村営スキー場関連の多額債務を抱えて財政再建団体への転落も予想される状況なのだそうだ。村議会の今回の提案は、「定数を削減せず、チェック機能も果たしていない」として、住民グループが村議会解散を請求していることに対する危機感の表れでもある。

民主主義における議会はもともと、イングランド王へのチェック機能からスタートした。その後、法律や条令を提案する機能を付加された。

議会が本来の機能を果たしていないという住民の不満はなにも日本だけのものではないと思う。

平成十三年十一月二十七日の衆院総務委員会でおもしろいやりとりがあった。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/

009415320011127012.htm

社会民主党の重野安正氏が市町村合併に関して直接民主主義と間接民主主義の問題に対して片山虎之助総務大臣に質問しているので参考にしてほしい。

どうやら「住民総会」は明治憲法下で多くあったため、戦後の地方自治体にも残さざるを得なかった制度だったらしい。

この総務委員会のやりとりの最後に片山大臣はおもしろいことを言っている。「ITがずっと進みまして、インターネット、オンライン時代になるんですよ。そういうことになるときに、市町村の住民の意思を直接聞いてみよう、そういう制度ができれば、町村総会は形を変えて生まれ変わってくる、私はこう思います」。

戦後、日本は間接民主主義を旨としてきたが、本来、民主主義は直接住民の意思を問うところからスタートした。平成の市町村合併では多くの自治体が「レファレンダム(住民投票)」を行った。これはまさしく住民総会の「変形」いな「原型」なのである。

 



国会議員  わかる政治への提言  次「理想と現実のギャップ」

まえがき

本書は、社民連代表の私が社民連の政治の主張を語るものではない。もちろん、政治についての私の考え方は随所に登場するが、たとえば「行財政改革」「教育改革」といった、政治の書物に当然登場するテーマは、本書では扱わない。

本書の課題は、私という一人の衆議院議員を材料にし、この人間の毎日の行動などを解剖してみることにより、国会議員の生態を明らかにすることである。

政治家以外の人による国会議員の生態解明は、珍しいことではない。しかし、国会議員が、いわば内側から、反省や自己弁護も含めて議員の実像を明らかにした書物は、あまり見当たらない。外からならば、自由な、しかし勝手気ままな批判ができるだろう。内側にいる者にとっては、これらの批判について、「そう言われても……」と反論したいこともたくさんある。本書はほんねを書いたつもりだ。

議員はみな、国民の代表者としてすばらしい日本を作るために協同して働く責任がある。その意味では「仲間同士」だ。しかしみな、選挙という戦争で食うか食われるかの闘いをしている。その意味では「敵同士」だ。

私も例外ではない。選挙に落ちたら、ただの人。いや失業者だ。そこで、私自身のことをあまりに白日の下にさらし過ぎて、次の選挙で競争相手に足をすくわれても困る。その配慮から、薄いベールをかぶせたところもある。読んですぐわかることだから、正直に告白しておく。

それでも、「よくもここまで……」と思われるはど、最大限明らかにしたつもりだ。

それは、私の選挙に有利不利ということよりも、国民のみなさんに政治と政治家の実態について正しい知識と理解を持っていただくことの方が、ずっと大切だと思うからだ。

現代社会は、政治なしでは成立しえない。どんなに私たちが政治を嫌っても、政治が私たちをつかまえて放さない。

どんなに税金を払うのが嫌でも、納めないわけにいかない。政治がそう決めているのだ。サラリーマンは、給料袋を受け取った時にはすでに税を差し引かれている。「頼んだ覚えはない。税務署へ行って取り戻してきてくれ」と経理課に強談判しても、バカにされるだけ。

税金の使い方も政治が決める。もし戦争などということになったら、個人の意向はおかまいなしだ。だから、政治が好きであろうと嫌いであろうと、私たちは政治に関心を持たないわけにいかない。議会制民主主義でもあるし……。

ところが現実には、国会でやっていることはまことにわかりにくい。国民の常識が通じない。そこで国民は政治から難れていく。

国民のみなさんに愚痴をこぼしても、お説教をしても始まらない。政治家の方が政治を改革して、国民にわかりやすいものにしなければならない。「まず隗より始めよ」だ。

本書の中で繰り返し強調したが、憲法四十三条は、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」と規定している。憲法が嫌いな人も、理屈としては、国会議員が特定のグループの代表でなく、全国民の代表なのだということに異論はなかろう。

ところが現実には、国会議員があまりにも特定のグループの代表になりすぎている。そして、国会議員の実績というと、その支援グループ(特定の地域であったり業界や組合であったり)のために何をしたか、それも実利的なことを、となる。

私も、そうした実績を頭から否定しようとは思わないし、これに取り組むことを躊躇もしない。しかし、国会議員の実績が今日の実利にだけ求められている今の風潮がこのまま続くと、私は日本号失速墜落の日がやがて来ると思う。

世の中みんな持ちつ持たれつで、助け合って社会を作っていることは、小学生でも知っている。しかし私たちは、成長するといつのまにかこれを忘れ、自分ひとりで誰の世話にもならずに生きているかの錯覚に陥る。そして、自分だけがその時その時で豊かに楽に暮らすことができれば、あとは何も言うことなしと思ってしまう。政治も、今日の自分の利益につながれば良いし、つながらなければどうでもよい。

こうして、たとえ政治家が政治を利用して金もうけをしても、その内の一部でも自分のところに回してくれればそれで良い。むしろ他に負けないよう「オラが代議士頑張れ」ということになる。心が貧しいのだ。

国は、物の乏しさで亡びることはない。心の貧しさが国を亡ぼす。今の日本の風潮を見ていて、こんなことで明日を支える国民が育っていくのだろうかと、ゾッとすることがある。政治家の行動で、心の貧しさを示す例があまりにも多いからだ。

こんな政治を変えたい。志を高く持って、たとえ今は少数でも、みんなですばらしい明日をめざしたい。「ブリッ子」と言われそうだが、やはり大切なことだと思う。

国の没落というと、イギリスを思い出される人がいるかも知れない。かつて「七つの海を支配し、陽が沈むことがない」と言われた大英帝国。国民がみな自分勝手になったから、昔の栄光は影もない……。果たして本当だろうか。

炭鉱労働者がストライキ。イギリス経済は麻痺。しかし私は、この労働者には少なくとも、自分たちの行動がイギリスを動かしているという実感があると思う。そして、「いざ鎌倉」という時、披らは、経済を麻痺させるほどのストライキをすることのできる自分たちの社会諸制度を、「命にかえても守りたい」と思うのではないか。

ひるがえって、日本人にどこまで、自分たちの社会や制度に対する信頼や信念があるか。愛情があるか。いくら「日の丸」を拝み「君が代」を歌っても、これは生まれてこない。世の中を、自分が作り、自分が動かすという実感に支えられて、愛も信頼も育つ。

愛国心は大切。しかしそれは、校長先生が朝礼で唱えるお題目ではない。もっと毎日の生活に基礎をおいた、具体的なものだと思う。家族や友人や、自分の職場や地域や、そして社会や経済の仕組みに対する信念なのだ。

政治が今のように、どんなに自民党が悪いことをしても、どんなに国民をいじめても、「自民党政治は不動」というのでは、国民はこの政治制度に愛着を感じるはずがない。

国民が、自分たちの願いや希望をぶつけていけば、「政治が変わる」という実感を持つことができてこそ、政治に関心もわき、この社会を正しい大切なものだと信ずる気持も育ってくるのだ

そのために私は、政治を変えたいと思う。国民にわかりやすい、国民の手の届く政治。これが政治の体質改善だ。ごく普通の庶民と政治をつなぐ回路を作らなければならない。

そして何といっても、自民党以外にもう一つ、「政権を担当しうる政治勢力」を作らなければならない。それが野党の連合だ。

防衛費であれだけ意見の違いがあるのに、本当に野党が手を結べるの……と首をかしげる方もいよう。しかし自民党は、もっと大きな意見の違いを包摂している。それにどのみち世界は、軍事費を削る方向しか、将来生き残る道を見出せない。憲法に書いてあることをよろず実現したいという方向で意見が一致すれば、防衛問題の意見の違いは小さい……。

国民は賢明だ。一人二人の天才が誤りなく国を運営するより、ずっと正しい道筋を、国民は、自分で試行錯誤を繰り返しながら選択していく。国民の願いが政治に反映すれば、必ずすばらしい明日を作ることができる。

心豊かなエピソードに満ちあふれた、滔々たる歴史の大きな流れを、みんなで作ろうではないか。民主主義は、私たち国民が主役なのだ。

今私が最も反芻している言葉を最後に掲げる。父が生前好んで色紙に書いた魯迅の言葉だ。

もともと地上に道はない みんなが歩けば道になる

 

昭和60年2月末日

 

岡山市の自宅で、雑草の緑に春を思いながら……理想と現実のギャップ新幹線で岡山から東京までは四時間と十分。定価千円以内の本なら、楽に一冊読み切れる時間だ。目を閉じて考えをまとめるにも適当だし、仮にそのまま眠り込んだとしても、それはそれで、日ごろの睡眠不足を解消するのにもってこいだ。私にとって新幹線の車中は、書斎兼寝室。いや、実際は寝室そのものだ。

私の父、江田三郎も、列車の中が書斎だった。書類に目を通すだけでなく、原稿さえも書いた。列車の振動で踊った文字の原稿を、清書もせずそのまま編集者に渡した。

私は《党務も必要だろうが、少しは人間、江田三郎が生活を楽しむ時間をとったらいいのに》と何度思ったか知れない。

父の死後私自身が政界へとび込む決意をした時、「政治家になっても、政治活動は一日八時間以内に抑えたい」と記者会見で発言したのはその偽らざる気持を表現したものだ。これが「問題発言」と騒がれてしまった。

政治家は、常に正常な判断力を備えていなければならない。そのためには、バランスのとれた平衡感覚と正常な体調を、いつも保っている必要がある。政治家の日常生活が異常であっては、正常な判断力を保てるはずがない。一人の市民として、趣味を楽しみ、ときには無為に時を過ごし、また一家団欒のひとときを持つ。それは、人間本来の姿であると同時に、そのような生活を送ることによって、人々が何を考え何を望んでいるかということも、わかってくるのだと思う。

しかし、理想と現実のギャップは大きい。「猿は木から落ちても猿だが、政治家は落選するとただの人だ」と言ったのは大野伴睦さん。ただの人よりなお悪い。失業者になってしまう。だからみな、体力と神経をすりへらし、目の色をかえて選挙準備に駆け回っている。まさに「毎日が日曜日」ならぬ 「毎日が選挙運動」で、選挙のための活動は無定量、無制限にある。

こうした現実の中で、我一人高潔を保っているわけにはいかない。 江田五月個人の時間は、新幹線の車中のみとなった。選挙活動は無限に広がっていく。それでもこれを、一人の市民としての生活が保てる範囲に留めたいと、自己抑制に努めてはいるのだ。

私の体験からすれば、その最も効果的な方法は、短時間でもいいから自分の頭の中から政治を閉め出すことである。絵を描くもよし、スポーツに汗を流すもよし、料理をつくるもよし――。

イギリスのヒース首相はオーケストラを指揮し、西ドイツのシュミット首相はピアノの演奏会を開催した。私も時折ピアノを弾いたりする。もちろん、隠し芸の域を出ないが。

先日は 『江田五月と音楽を語る夕べ』と銘うって、プロの演奏者や声楽家の友人を招き政治抜きの集まりを持った。私自身も余興にピアノを弾いた。『月光の曲』第一楽章のつもりだが、そう聞こえたかどうか……。

私が言った「一日八時間の政治」というのは、一日八時間しか働かないということではない。一人の市民としてあるべき生活を忘れてはいけないということを象徴的に表現したつもりだ。

第1章 国会議員の実像−資金と特権前へ/次「金帰火来で田の草取り」

一週間の行動国会議員は、なぜこんなに忙しいのか。その原因は、要するにあまりにもやることが多いからである。思いつくまま列記しても一、選挙準備活動 二、国会活動 三、政党活動 四、政治資金づくり 五、政策の勉強 等々が浮かぶ。

ほとんどの議員が、四で得た資金を、一、二、三で使っているから、四と一、二、三は車の両輪の関係といってよいだろう。

さて私の場合、車の両輪はバランスがとれているかどうか。ある一週間の行動記録をご披露して、説明してみよう。

民主党 参議院議員 江田五月著 国会議員― わかる政治への提言 目次/ホーム

第1章 国会議員の実像−資金と特権 前へ/次「政治資金と選挙資金」金帰火来で田の草とり

閣僚や政党幹部、あるいは参議院の比例代表及び旧全国区選出議員を除く与野党議員の大半が、国会開会中は、「金帰火来」。この点ではみな行動のパターンは似たようなものだ。

両院で常任委員会が開かれるのが火曜から金曜にかけて、本会議の定例日は衆院が火、木、金、参院が月、水、金だから、議員の大多数は火曜の朝上京して金曜帰郷する。そこで「金帰火来」という言葉ができているのだが、月平均四往復する議員たちが選挙区で何をするか。これが「田の草とり」なのである。

日本はさすがに瑞穂の国だけあって、政界用語にも稲に関する言葉は多い。選挙区を「票田」と呼ぶのはすでに日常語と化している。その「票田」に食い込んできた他陣営を、はびこる雑草にたとえ、雑草をむしるように影響力を排除しようとするのが 「田の草とり」というわけだ。

なんとも選挙民を馬鹿にした言葉ではある。しかし、自分の選挙区の人々との人間関係を大切にし、この人々から官僚的手法とは別の情報、つまり庶民が毎日の生活の中で何を願い何を嘆いているかを知ることは、政治家として大切なことだ。そこには政治家の、官僚では果たせない固有の役割があるのだから。

さて、国会議員は選挙区でどういう活動をしているのだろうか? 「選挙活動に決まってるじゃないか」と答える人がほとんどだろう。では、代表的な選挙活動は? ときけば、「自分の名を宣伝すること」と答えるだろう。たとえば葬儀や結婚式に出席。それが駄目なら花輪や祝電――。

ところが、祝電は公職選挙法に違反しないが花輪は違反となる。「でも、国会議員の花輪はほうぼうに出ていますよ。あれは全部公選法違反なのですか」と、みなさんびっくりされるに違いない。

だがこれは、違反でもあり、違反でもなし。実にあいまいなのだ。つまり、花輪の代金を議員個人が払えば違反で、議員の後援会など別の団体が出せば違反でないというのだ。

公職選挙法では、議員は、自分の選挙区内では、慶弔費や寄付等を支出することは禁止されている。そうしなければ、花輪の大きさや金一封の金額の競争になるからだ。現実には守られていないが、守る努力はしなければならない。

私も、時には盛花をお届けすることがある。だから他人のことを批判できないのだが、その対象はあくまでも、あえて違法のとがめを受けても、自分の気持として、何かしないではいられない場合に限っている。故人に 「そんな違法はやめなさい」と叱られるのではないかと心配しながら……。

政治と金のつながりは、議員個人とその政治団体の関係、選挙活動と政治活動等、いくつかの要素がからみ合い、ある時は表が出、ある時は裏が出るといった具合で、政治の金はわからないというのが定評になっている。

第1章 国会議員の実像−資金と特権 前へ/次「政治資金と選挙資金」

政治資金と選挙資金 昭和五十八年の衆議院選挙の際は、私の選挙区、岡山一区でさえも「二当一落」という言葉がささやかれた。千葉県など与党同士がしのぎをけずった千葉県のある選挙区では、「五当四落」だったという。選挙に五億円かければ当選、四億なら落選。驚くべき金権選挙だ。

だが、 公職選挙法で定められる法定選挙費用(最高額)は、はるかに少ない額だ。たとえば五十八年の衆議院選挙の場合、公示の日におけるその選挙区内の選挙人名簿登録者数法定制限額=人数割額(28)×+固定額(1070)その選挙区内の議員定数という方法で計算され、ちなみに私の岡山一区の場合は1447万4000円だった(最高は千葉四区の約2084万円、最低は兵庫五区の約1300万円)。

これらの数字と「二当一落」 とのはなはだしい落差が、有権者の政治不信を生む一つの原因になっている。保守系候補なら、会議費と郵送費だけで1500万円ぐらいはかかってしまうだろう。そのくらいのことは、その道のプロでなくても容易に想像がつく。

ところが、この法定選挙費用は、実は奇妙なことだが守られていることになっている。「何をバカな……」と怒られそうだが、理屈のうえでは本当の話なのである。各陣営ともこの限度内で選挙戦を戦ったことにしようと全力をつくしている。なぜなら、法定選挙費用をオーバーすると、その候補者の当選は無効になるから――。

たとえば、法定選挙費用は「選挙運動のための支出」に限られるから、 選挙運動外の支出は選挙費用でない。別の言い方をすれば、法定選挙費用の範囲に入るものだけを選挙費用と計算し、その他は選挙費用でないとしてしまうのだ。「ナニ?」と思われる方は、もう一度ユックリ読んで欲しい。限りない支出のうち、法定選挙費用と認められるものだけを選挙費用とし、その他は選挙費用とは別の支出とする。いかにも「口舌の徒」にふさわしい理屈だ。事前の、とりわけ候補者自身ではなくその政治団体が、日常的政治活動として支出した金が、金権選挙の土壌を作る。

前項で述べた慶弔費の他、各種会費、広告費、寄付金等、名目は異なるが企業でいうなら交際費に当たる支出が問題だ。これらは、選挙費用とは別に、政治資金規正法による報告の対象となるが、その真偽をチェックする仕組みはどこにもない。政治資金の収支報告書は、形式的につじつまが合っていれば事務的に受理される仕組みになっている。

「なんとルーズな!」というお叱りも当然だ。原稿を書いたりして得た、わずかなアルバイト収入を申告し忘れて、給与外所得があるじやないかと税務署に呼び出されたサラリーマンの話などを聞くと、「非課税の特典」を与えられた政治資金の収入源と使途を、もっと具体的かつ詳細に報告するのが、国会議員の義務だと思う。

議員一人当たりの国民の負担国会議員が国庫から支給を受ける金銭の代表的なものは、「歳費」だ。

憲法第四十九条に「両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける」とあり、これを受けて「国会法」と「国会議員の歳費、旅費及び手当等に関する法律」が細目を定めている。

「歳費」という耳慣れぬ用語が使われているが、支給日は毎月十日なのだから実態は月給だ。帝国議会開設当時が年俸制だったので、その名残が、名称に残っているのだ。

金額は国会法第三十五条に「一般職の国家公務員の最高の給料額より少なくない歳費」と定められており、各省の事務次官と同額。昭和五十九年十二月現在、月額938,000円が支給されている。その他期末手当として、三月、六月、十二月の三度、合計4,419,250円が支給される。

以上が、国会議員の課税所得のすべてだ。しかし、国会議員が受け取るのはこれだけではない。

非課税の「文書通信交通費」が、月額65万円支給される。これは「電話代、郵傾代など国会議員本来の政治活動の実費弁償」という建前である。

さらに、国会議員個人に支給されるものではないが、その議員が所属する政党に対して支給される「立法事務費」があって、所属議員一名につき60万円支給される。では政党に所属しない無所属議員は、「立法事務費」を受け取れないのだろうか。ちゃんと受け取る方法がある。「立法事務費」の受け皿となる政治団体を結成しさえすればよい。

また、議員を補佐する秘書に対し、国庫から二名分の給料が支給される。第一秘書は月額335,720円、第二秘書は239,800円の給料で、いずれも国家公務員一般職に準じて、期末手当や通勤、住宅、勤勉手当が支給される。さらに、議員の引退後のために、国庫から五十パーセントの補助を受ける 「国会議員互助年金制度」もある。

さらに現物供与として、国会議事堂の真裏の議員会館に、二室あわせて三十九・五平方メートルの事務室が無償で割り当てられる。
都内一等地にある議員宿舎が、東京周辺居住以外の議員には、格安の家賃で割り当てられる。国鉄及び私鉄の無料パスもある。

そのうえ、憲法第五十条に定められた「不逮捕特権」まである。国会の会期中に議員を逮捕するのには、院の許諾が必要というものである。 このような国会議員の厚遇に対して、「行政改革はまず国会から始めよ」という批判の声が上がっている。国民にとって国会議員とは何だろうか。今の状態からすれば、当然の批判と思う。

だがしかし、という点も、実は重要だ。「議員特権」に対する私の弁解は後に述べる。

2/24/2006 12:04:35 AM議員一人当たりの国民の負担  ここまでいれる。